一人で遊ぶトランプゲーム。皆さんはなんと呼んでいますか? おそらく、ほとんどの方が「ソリティア」と答えるでしょう。

しかし、かつて日本ではこれを「ソリテア」と呼ぶのが一般的でした。宝石業界では今でも一粒ダイヤの指輪を「ソリテア・リング」と呼びます。

なぜ、ゲームの世界だけ「ソリティア」という、ちょっと発音しにくい不思議な呼び名に変わってしまったのでしょうか。そこには、言語学的な進化とは無縁の、圧倒的な「インフラの力」がありました。

そもそも「ソリティア」という英語発音は存在しない?

まず、驚くべき事実からお伝えします。英語の綴りは “Solitaire” です。 この発音をカタカナで表現するなら「サリティア」や「ソリテア」が近く、どこにも「ティ」という音は含まれていません。

「英語っぽく聞こえるからソリティアになった」と思われがちですが、実は本場の英語では「ティア」とは発音しないのです。

徹底比較:他の “-aire” はどう読まれている?

英語には -aire で終わる単語がいくつかありますが、日本での定着の仕方を見てみましょう。

単語 本来の英語発音 日本での一般的な表記
Millionaire ミリオネア ミリオネア
(×ミリオニア)
Billionaire ビリオネア ビリオネア
(×ビリオニア)
Questionnaire クエスチョネア アンケート
(英語風ならクエスチョネア)

ご覧の通り、他の単語はすべて「ネア」と正しく認識されています。ミリオネアを「ミリオニア」と呼ぶ人はまずいませんよね。

では、なぜ「ソリテア」だけが「ソリティア」になってしまったのでしょうか。

犯人は「綴り(スペル)」に引きずられた脳の誤解

「ソリティア」という言葉が誕生した背景には、日本人が英語のスペルを見た時に起こす、ある「バグ」のような処理があったと考えられます。

  1. “i” を見てしまった: 中間の i を見た瞬間、反射的に「イ」の音を入れたくなった。
  2. “are” を「ア」と読んだ: 末尾を「ア」と読み、結果として「イ+ア」の形が完成。
  3. 日本語の法則の発動: 日本語には「イ段の音の後にアが来ると、ヤの音が混じってイヤと発音しやすくなる」という癖があります(ダイア → ダイヤなど)。

その結果、本来の音を無視して、綴りから強引に生成された「ソリティア」という独自の造語が爆誕してしまったのです。

「OSの画面」という最強のインフラが言葉を上書きした

本来なら、こうした言いづらい誤読は自然に消えていくはずです。しかし、ここで歴史を変える巨大な力が働きます。Windowsの登場です。

1990年代、Windows 3.1や95が爆発的に普及した際、その付属ゲームのタイトルには「ソリティア」と記されていました。

  • 当時の状況: トランプの一人遊びを何と呼ぶか知らない数千万人の日本人が、初めてそのゲームに触れた。
  • 視覚の勝利: 画面のど真ん中に「ソリティア」と書いてある。

「耳」で聞いた音ではなく、PCの「画面」に書いてある文字を正解として記憶してしまった。これが、言葉が上書きされた決定的な瞬間です。もし、当時のマイクロソフトの翻訳担当者が「ソリテア」と入力していたら、今の日本で「ソリティア」という言葉は使われていなかったかもしれません。

結論:ソリティアは「デジタルが定着させた誤読」である

ソリティアという言葉は、英語のルールからも、日本語の言いやすさからも外れた、いわば「デジタル時代のバグ」のような存在です。

しかし、ひとたびWindowsという巨大なインフラがその名を冠してしまえば、誤読は「標準語」へと昇格します。私たちは、言葉の正しさよりも「画面に何と書いてあるか」を信じる時代に生きているのです。

次にPCでソリティアを開くときは、その奇妙な「ティ」の響きに、90年代の翻訳担当者のちょっとした思い込みを感じてみてください。

AIで知識格差がなくなる

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AIと知性の「平均化」

MITのErik Brynjolfsson(エリック・ブリンヨルフソン)氏らの論文などで、「知能が劣る人はAIを使うことで賢い人と同じような行動ができるようになるが、賢い人がAIを使うと、平均的な行動になっていく」という考え方を提唱しています。

AIは、これまで特定の専門家だけがアクセスできた情報やタスクを、誰でも簡単にこなせるようにします。これにより、知識やスキルが劣る人でも、AIをうまく活用すれば、知識豊富な人と同レベルの成果を出せるようになります。

一方で、すでに高い知性やスキルを持つ人はどうでしょう?彼らはAIを「使い方」として覚える必要がなく、むしろAIを使いこなすことで、さらに独自の価値を生み出すことができます。ただし、もしAIの機能に完全に依存してしまえば、自分で深く考えることをやめてしまい、結果的に「平均的な」行動に収束するリスクもゼロではありません。

これは、計算機が普及した時代に、単純な計算能力が重要ではなくなったことと似ています。今後は、AIを使いこなす能力に加え、より良い問いを立てたりする「AIのさらに上を行く思考力」が重要になるでしょう。

AI時代における人間の価値と教育

AIが知識やスキルを「代替」する未来が来るなら、人間は知識やスキル以外の部分で評価されるようになるかもしれません。未来は知性が高いことよりも、性格で人が判断される時代が来るかもしれません。

最近、学校教育にAIを取り入れる動きが活発ですが、単にAIの「使い方」を教えるだけでは不十分かもしれません。なぜなら、操作方法はAI自身に聞けばすぐにわかるからです。むしろ、AIに過度に依存することで、特に能力の高い生徒の思考力が低下する懸念さえあります。これからの教育で重要なのは、AIには解決できない問いを立て、創造的に考える力を養うことではないでしょうか。

教育にAIについての学習を取り込もうというのは、AIを理解していない人のAIに対する恐怖のようなものがあるからだと想像できます。AIは危険だから、使い方を教えようという流れ。自己破産が危険だからクレジットカードの使い方を教えようといっているのと似ています。メリットを過小に扱い、デメリットばかりにスポットライトを当てていく手法は、いろいろな分野で見られます。

新たな価値基準:知性から人間性へ

ところで、もしAIが浸透して、人間の知性のアシスタントになる未来があるのであれば、知性が低いことはハンディキャップにはならなくなるはずです。原始時代は目が悪ければ、獲物を探すことができないので、身体障害者のようなものだったはずですが、メガネがあることで人間の機能を補完できます。今の時代、視力が悪いことを身体障害者と認識する人はいないでしょう。

それでも人は人を比べたがる生き物なので、新しい価値観で人を比べることでしょう。人間性はどのように比較するのでしょう。AIを使えば簡単かもしれません。それには道徳の授業が役に立ちそうです。未来のAIなら点数化をすることも簡単でしょう。これによって、道徳心のある人がよりよい就職ができるのです。

これにより、例えば企業は「道徳心のある人」を優先的に採用するようになるかもしれません。なぜなら、そのような人材は不祥事を起こすリスクが低く、安心して雇用できるからです。「道徳心があれば本当に不祥事を起こさないのか?」という長年の疑問さえ、AIが膨大なデータから答えを導き出す可能性があります。

そんな未来って本当に来るの?と思いそうですが、腕力の時代から知性の時代に変わったように、新しい価値観の世界が到来するのは容易に考えられます。短いスパンで見ても、知識の詰め込みよりも知識から新たな創造をすることが重視される時代に変化しています。今や、物知りの友人に尋ねるよりも、スマートフォンで検索する方が迅速かつ正確な情報を得られる場面も増えています。

逆にAIが人類の価値観を根底から覆すものとなるのかも興味があります。

ウポポイがガラガラ

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ウポポイは本当に「ガラガラ」なのか?

2020年、アイヌ文化復興・創造の拠点として華々しく開業した「ウポポイ(民族共生象徴空間)」。しかし、開業から数年が経ち、SNSなどでは「ウポポイはガラガラ」「人がいない」といった声も散見されるようになりました。YouTubeを見ても、ウポポイの現状を伝える動画が多くあるようですが、旅系YouTuberが楽しんでいる動画はほぼなく、それらの動画の再生数は低迷しているものばかりです。

Googleマップは、さすがにクチコミ投稿は多く、5000を超えます。近くにあるマリンパークニクスが8000なので、結構な書き込みがあると思います。ただし、ウポポイの投稿の内容はネガティブなものが少なくないのが特徴です。だから投稿数が多くなっているのもあるでしょう。

修学旅行・教育施設としてのイメージ定着

ウポポイが担う重要な役割の一つに、アイヌ文化の教育的側面があります。実際、多くの学校が修学旅行や校外学習でウポポイを訪れており、その役割は着実に果たされていると言えるでしょう。

しかし、その一方で「修学旅行で行く場所」「勉強する場所」というイメージが強く定着しすぎた可能性も考えられます。来客者の20〜25%が教育旅行という資料があります。一般の観光客、特にカップルや友人同士のグループにとっては、「わざわざ休日に訪れる場所」という選択肢になりにくいのかもしれません。

近隣の観光施設との連携不足?

ウポポイが位置する白老町は、登別や洞爺湖といった北海道を代表する観光地に隣接しています。とはいっても、それなりの距離があります。しかも自治体が違うのでタグを組むのは難しそうです。

白老町には、他に観光地はないのですが、白老牛や虎杖浜たらこ、マザーズのたまごなど、食に魅力があります。ただし、それらはアイヌとは関係がないので、ウポポイと組み合わせることはできません。

阿寒湖のアイヌコタンは、阿寒湖の湖畔にあります。遊覧船に乗り、おみやげ街をまわっているとイコロがあるという位置関係です。「ついでに入ってみる?」というノリで利用することも考えられます。気軽に入ったのなら特に十分に満足の行く施設です。

そもそも「アイヌ文化」への関心が低い?

アクセスや他の施設との比較以前に、より根本的な課題として「そもそもアイヌ文化そのものへの関心が、まだ一部にとどまっているのではないか」という視点も考えられます。

多くの人にとって、アイヌ文化は歴史の教科書で触れる程度の知識であり、自ら時間とお金をかけて学びに行きたい、体験しに行きたいという強い動機付けに繋がりにくいのかもしれません。ウポポイの存在意義は、まさにその関心を掘り起こし、文化の魅力を伝えることにありますが、現状ではその魅力がまだ十分に届いていない、という見方もできます。

アイヌ民族の「働く場」としての役割

これまで観光客の視点からウポポイを見てきましたが、もう一つ忘れてはならない重要な側面があります。それは、アイヌ民族にとっての「雇用の場」としての役割です。

ウポポイは、多くのアイヌの人々がスタッフとして働き、自らの文化や歴史を語り、伝統的な技術を披露する場所です。これは単なる雇用創出にとどまりません。伝統舞踊の演者、工芸品の実演家、解説員といった仕事を通じて、文化そのものが次世代へと受け継がれていく「生きた継承の場」となっているのです。

来場者数の多寡とは別の次元で、ウポポイはアイヌ民族の生活と文化の基盤を支えるという、計り知れない価値を持っていると言えるでしょう。

少子化対策とおせっかいおばさん

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少子化対策がよく言われていますが、それ以前の未婚率の上昇も課題です。

一般的な分析としては、経済的不安、出会いの機会の減少、独身生活の快適さ、そして結婚に対する価値観の変化などを理由としています。

「経済的な不安」や「独身生活の快適さ」なんていうのは、結婚できないときの言い訳に過ぎません。アンケート調査は見栄があるので、カッコ悪いことは避けようとします。なので、アンケート調査の裏を読み解かないといけません。

内閣府のサイトで見つけた記事。

コラム1 「お節介」による人のつながりと地域づくり~独身者の出会いの支援~

単身の8割近くは結婚の意向があるにもかかわらず、適当な相手に巡り合わないという理由で結婚していないといった結果がでており、いまや晩婚化や少子高齢化は日本社会全体の大きな課題となっている。

ここでは、高齢者の広い人脈と社会的信用を生かした「お節介な地域貢献」でコミュニティを再構築しようとする地域について紹介する。

一昔前は、「結婚していないの?」「早く結婚したら?」というのがあいさつ代わりともいえるくらい普通にかわされていたのですが、それを面倒と思う人がいて、いつしかそういうノイジーマイノリティの声により、タブー視されるようになったように思います。

結婚を意識していなかった人が、繰り返し「結婚」というキーワードを耳にすることで、意識するようになることも多かったかもしれません。そこに友達の友達を紹介するとか、出会いがあれば、結婚に至ることも多いことでしょう。

今は、プライバシーに関してはハラスメントと捉えられるかもしれないと、控えるようになり、結婚というキーワードを耳にすること自体も減ってしまっていることでしょう。

少子化対策は、子どもが生まれてからの支援がメインで、結婚している人たちが、子どもを生んでも生活しやすいような対策です。

出会い系サイトは危ないし、結婚相談所は気が引ける。出会う場所を作っても参加者の年齢が高くなれば、理想も高くなります。結婚がどんどん遠ざかっています。

上記のおせっかいコミュニティのように、とにかく場をつくること。若者が集まり、なにかをすることで自然と交流ができればいいのかもしれません。参加は1回で終わらないこと。そんな企画を作ることができればいいのですが。

表面上結婚を前提としないで、男女が活動できる場。そこにおせっかいおばさんが裏で「あの人どう?」なんて水面下で動いたら、効果は抜群。

ただし、その企画に「ふざけた企画に税金を使うな!!」というノイジーマイノリティの声があがりそうだと、ボツになりそう。

逆さ地図で日本を見ると(ロシア編)

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中国を下にして地図を横にすると、中国の視点で、日本列島・台湾のつながりが太平洋に向かう海路のじゃまになっている様子がよくわかるという話はよく出てきます。どこかの島を占領してしまえば、じゃまされない航路を手に入れることができるというわけです。
map_china_2025.jpg
ちょっと見方を変えると相手の立場で物ごとを考えることができるという、たとえに使われることもあります。

さて、同じように北海道の北側から逆さで地図を見ると、ロシア側からの視点も見ることができます。
map_russia_2025.jpg
オホーツク海を囲むのは、ロシアの大陸とカムチャツカ半島、樺太や千島列島があります。ぐるっと囲む楕円の中で、そこに北海道があるのが違和感となります。

ロシアの政治家の「北海道はロシアの一部」という発言は、ロシア側から見たら自然と思えるのでしょう。もちろんロシア側から見た、「見た目」の問題です。

戦後のどさくさで当時のソ連は北海道まで進出しようとしましたが、南下政策と合わせて、そんな感覚は当時からあったのかもしれません。北海道の少なくとも北半分を占領する計画だったといいます。

ウクライナ戦争をさっさと終わらせたら、次は北海道侵攻をすると予想している人もいました。

アイヌ新法という法律の中で、アイヌ人は先住民族としました。これによって、「アイヌ人はロシアの少数民族=ロシア人」なので、アイヌ人が日本で虐げられていると理由をつけて、北海道侵攻の口実にするかもしれません。

北海道侵攻なんて、平和ボケしている日本人は、「まさか」と聞き流すのでしょうが、あながちそうともいえないのは、ウクライナ戦争が物語っているのではないでしょうか。

第二次世界大戦の表記

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数字の表記は、カウンタブルならアラビア数字、アンカウンタブルなら漢数字とするのが一般的です。数えられるかどうかで判断します。

第一次世界大戦、第二次世界大戦と続き、第三次世界大戦が危惧されているということがあったとすると、世界大戦は数えられるもののように感じるのですが、この場合は、縦書きでも横書きでも漢数字が一般的です。これは、「第二次世界大戦」という固有名詞として扱い、歴史用語となっているからなのだそうです。

「一郎」「次郎」のように固有名詞というわけです。これが「1郎」「2郎」になることはありません。それぞれ別の人間です。

「第2次安倍政権」など、アラビア数字になるものは、固有名詞ではなくカウンタブルだからです。

「1つめの理由」などと表記するときは、アラビア数字。理由を羅列している中の1つめだからです。2、3と数字を置き換えても成り立つかどうかも判断の基準の一つです。この場合の「一つ」は「2つ」にすると文章がおかしくなります。

英語でもカウンタブルは、1st、2ndとなり、アンカウンタブルは、World War II などとローマ数字を使うようです。でも、「の一つ」は「one of」です。「最も高い山」と言っているのに「one of the most」と複数存在するというツッコミは英語の最上級を習うときによくあるものです。

Made in PRCって?

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「Made in PRC」と書かれた商品があります。PRCってどこの国でしょう。答えは「People's Republic of China」、つまり中華人民共和国、中国のことです。

「Made in China」というと、安いけど品質は悪いという印象を持つ人がいます。個人的には、当たりハズレはあるけど、iPhoneだって「Made in China」なので、悪いものばかりではないと思っています。中国製は避けたいと言っている人がiPhoneを使っていることも珍しくないでしょう。

そもそも「Made in...」という表記は、「Made in Germany」から始まりました。

「Made in Germany」という表示は、1887年にイギリスで制定された「商品表示法(Merchandise Marks Act 1887)」によって義務付けられました。この法律の主な目的は、イギリス市場に流入するドイツ製品が、品質の低い模倣品であることを消費者に明確に知らせ、イギリス製品と区別させることにありました。つまり、「これはドイツ製で、イギリス製品とは違う粗悪品ですよ」という警告の意味合いが強かったのです。

その後ドイツは、製品の品質向上に徹底的に取り組み、信頼性の高い製品を生み出すようになりました。その結果、20世紀に入る頃には「Made in Germany」は「高品質で信頼性の高い製品」の代名詞となり、現在では世界中で最も評価の高い原産国表示の一つとなっています。

「Made in Japan」は、現在では世界中で高品質、信頼性、そして精密な技術の代名詞として高く評価されています。しかし、その道のりは決して平坦ではありませんでした。日本の製品が海外で評価されるようになるまでには、いくつかの段階がありました。

第二次世界大戦後、GHQの占領下にあった日本では、「Made in Occupied Japan(占領下の日本製)」という刻印が義務付けられた輸出品がありました。この時期の日本製品は、海外では安価な模倣品や品質の低いものと見なされることが少なくありませんでした。

しかし、日本企業はその後、徹底的な品質管理、生産技術の革新、そして細部へのこだわりを追求しました。特に、自動車や家電、精密機器などの分野でその真価を発揮し、1970年代から1980年代にかけては、アメリカをはじめとする世界の市場でその品質と性能が認められるようになりました。

有名な例として、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』(1990年公開)の劇中で、1955年のドクが「安物を使うからだ。見ろ、Made in Japanと書いてある」と言うのに対し、マーティが「なに言ってんのドク。最高のものはみんな日本製だよ」と返すシーンがあります。

Styxの「Mr. Roboto」(1983年)という曲に「With parts made in Japan」という歌詞があります。この曲は、日本製の部品を使ったロボットについて歌っています。日本製の部品なら信頼性が高い。近未来的なものはいつも日本人が作り出すという印象が持たれています。。

現在では、「Made in Japan」は単に製品の品質だけでなく、革新性、耐久性、そして安全性の象徴として認識されています。

ちなみに「Made in Korea」のKoreaは、朝鮮のことですが、ここでは韓国を示します。勝手に朝鮮の代表として振る舞っています。北朝鮮は「Made in DPRK」となるそうです。

お客様は神様です

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「お客様は神様です」というフレーズはあまりにも有名です。

商店や飲食店だけでなく、サービスを提供する場では、お客様が神様で絶対的だという風潮が広がってしまいました。「こっちは客なんだぞ!!」と怒り狂う客。客は神のようにエラいというわけです。

社員教育の中でも、「お客様は神様ですから」と接客の心得のように語る場合もあるそうです。日本社会に浸透した考え方となってしまっているかもしれません。「お客様は神様です」というフレーズが独り歩きして、サービス向上の合言葉にもなったのでしょう。役所の窓口も来訪者は客みたいなものなんだから、もっと丁寧に対応しろよって発展している感じです。

サービス提供者も人間なのだから、コミュニケーションが大事だとちゃんと理解して接する人がほとんどなのはもちろんですが、なにかトラブルっぽいことがあると「お客様は神様です」というフレーズが頭をよぎります。お客なんだからきちんと対応してほしいと...。それほどインパクトが強いフレーズです。

検索をすればすぐに出てきますが、この「お客様は神様です」というフレーズは、昭和中期に活躍した歌手の三波春夫氏が、地方公演での司会者とのやりとりで発したフレーズです。それがウケたので、漫才トリオのレッツゴー三匹が漫才のネタにして、1972年の流行語となったそうです。

「お客様は神様です」というフレーズは、「あたかも神前に立った時のように澄み切った心で歌わないといけない」という気持ちからきたフレーズです。お客様を神様に見立てて歌うということで、歌う側の姿勢を語ったものです。お客様がイコール神様なわけがありません。

「お客様は神様」の誤解は、三波春夫氏の生前から語られてきたことらしいのですが、全然広がっていません。今の時代なら、インフルエンサーがこのことを知って広げていったら、半世紀も続く誤解が解けるかもしれません。

もし加齢しない薬ができたら

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「不老不死」って気になりますよね。老いもしないし、死ぬこともない。

ただ、「不老」と「不死」はセットで考えられますが、分けて考える必要があります。

『未来惑星ザルドス』という映画があります。不老不死の理想郷は、何をしても死ぬことがないため、人生に飽きて無気力になっていきます。やがて死を願うようになる。死のうとするとバツとして、若さが奪われ、老けていく...。

平均年齢は伸びていますが、最高年齢はあまり変わらないといいます。太古の昔から長生きする人はわずかながらいたのではないかと言われます。平均年齢が30歳の時代に、100歳の人がいれば、通常の3世代にわたって生きているのですから、「あの人は死なないのではないか」と思われても不思議はないわけです。

今でも120歳くらいが最高年齢で、更新されないという不思議があります。遺伝子に寿命に関するものがあり、その限界が120歳くらいだという説もあります。ただし、この遺伝子の存在も懐疑的な学説もあるそうです。それでも、もし、そんな遺伝子があるのなら、遺伝子操作で寿命を伸ばすことができるというわけです。

寿命が長くなっても、健康でいられるかは別問題です。たとえば意識がない状態で生きていても、うれしくないですよね。それとか、SFのように意識をコンピュータのメモリのようなところに保存して生き続けるとかって、どんな気持ちなのでしょう。それって生きていることになるのでしょうか?

「不死」といっても、ゾンビのように撃たれても起き上がって歩き出すような「不死」もどうなのだろうと思います。つまり、体がどのような状態でも生き続けるというもの。こんな「不死」は実現できそうにないので、考えなくてもいいかもしれませんが、病気やケガは避けて通れないわけです。

「不老」のほうも、研究が進んでいます。そもそも昔の60歳と今の60歳は、印象が違います。サザエさんの父の磯野波平は、54歳という設定だそうです。当時の定年は55歳だったそうです。典型的な定年間近の風ぼうをイメージしているわけです。今は、定年を65歳、あるいは70歳に移行しようとしている時代です。60歳はまだまだ元気です。確実に老いのスピードが遅くなっていると言えるのではないでしょうか。

さて、もし加齢しない薬が実用化され、市販されたらどうなるのでしょう。仮にその状態で成長が止まるという前提で考えてみます。最長年齢は最大でも120歳です。

「子どもと大人とどちらがいいですか?」と質問を投げかけると、子どもがいいと返答する人が一定数います。これは立場の問題で、責任がない、働かなくてもいいから子どもと考えるのですが、一生子どもの見た目だとそれも問題ありそうです。しかも「見た目は子供、頭脳は大人」とはなりません。一生脳は子どもです。成長途中で停止しているのですから。

健康のピークは20歳代前半と考えたとしましょう。でも年齢を重ねても、いつまでも見た目が若くて貫禄がありません。どの年齢の体で加齢しない薬を服用するか、非常に悩むことになりそうです。判断を誤ると一生後悔することになるでしょう。

とうもろこしが中国中国している

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日本には「きび」という穀物があります。
「きびだんご」でお馴染みですね。

そこに中国から別の種類の「きび」が伝わってきたので、区別するために中国を意味する「もろこし(唐土)」を付けて、「もろこしきび」と呼ぶようになりました。
これを略して「もろこし」と呼ばれ、定着しました。

さらに時代が下り、さらに別の「きび」が伝わってきました。
「もろこし」に中国を意味する「とう(唐)」が前につき、「とうもろこし」と名付けました。

つまり「とうもろこし」という名前には「きび」という単語は含まれず、二重に中国を意味する言葉を連ねています。「中国中国」というわけです。
ダブルに重なっているわけです。

北海道では、「とうもろこし」のことを「とうきび」と言いますが、「唐」の「きび」というので、ネーミングとしては「とうもろこし」よりも正しいです。

全員野球

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野球が好きな上司が「この仕事は全員野球だ!!」と熱い気持ちを語る人がいたのですが、野球に興味がない人にとっては、さっぱり伝わってきません。

「協力して取り組んでいこう」ということなのでしょうが、意味不明なたとえを挟み込むことで、言葉の深さがわからなくなります。深いのかどうかもわからない。

なにかをわかってほしいときに、たとえ話をしようとするのは誰しもあることです。そのたとえが話し手と聞き手が共有できる内容でなければ、失敗です。単に遠回りになっているだけで、余計にわからなくなることがあります。

話し手は、伝えたいことがあるからたとえ話をしているはずなので、聞いている側は、そのたとえ話の真意を探そうとします。ストレートに話しをすると実に単純なことなわけです。「全員野球」という話をされても、内容は「協力して取り組んでいこう」と実に簡単な話となってしまうわけです。それよりは、仕事の中で実際に起きている事例で話をされたほうがわかりやすいのですが、身近な実例は範囲が狭められるので、汎用的になっていかないことを危惧してしまうのです。

あまりに抽象化した話をすると、聞き手側のそれぞれがそれぞれの事例を頭に浮かべてしまうので、話し手の目的は収束しません。話し手の意図と真逆の意味合いで受け取ってしまうこともよくある話です。

講演会で話を聞いたあと、職場でそのことを話題にすると、受け取った教訓が真逆のことがあります。どんな話を聞いても、そこから「努力」の二文字しか思い浮かべない人は結構います。

オリンピック選手の話で、「メジャーな競技だとまったく太刀打ちできないので、マイナーな競技を取り組んでメダルを取ることができた。そのときの運とか時代の流れとか人との出会いとか、人生どうなるかわからないもの」という趣旨の話だったはずなのに、「さすがメダルを取る人は努力を積み重ねて今に至っている」と感動しているわけです。もちろん謙遜しているだけで、ものすごい努力をしているのかもしれません。いや、きっと努力をしていることでしょう。

「全員野球」の場合は、人それぞれバックグラウンドが違うので、野球好きには共通したものを感じるのでしょうが、スポーツとは無縁の人には何を言っているのかさっぱりわかりません。どんな話をしても「努力」を思い浮かべる人がいる中、違うことを想像している人もいるわけです。同じ姿勢で取り組んでいこうとしているのか、適材適所で得意分野でがんばろうとしているのか、話し手が想定していない方向で解釈する可能性があるということです。

勉強の合間にちょこっとチョコレート

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人間の脳は、体全体で消費するカロリーの約2割も消費すると言われています。なので、勉強するとカロリーを消費するので、勉強の合間にチョコレートを食べたりして糖分を補給したほうがいいとか、勉強する人は、脳がカロリーを消費するので、太りづらいなどという話があります。

しかし、最近の研究では、勉強をたくさんしたからといって、カロリーがたくさん消費されることはないということがわかっています。脳が全体の約2割のカロリーを使うのはそうなのですが、脳は、勉強をしていても、ボーとしていても、常に動いています。臓器を動かしたり、五感から入ってくる情報を処理していたりしています。

勉強しているときは、聞こえてくる音をシャットアウトするなどして、他の情報処理をするカロリーを節約して勉強に専念しているので、トータルのカロリー消費に変化はないということです。しかも、脳は脂肪を燃焼するわけではないので、ダイエット効果はなし。

非常に残念な、知りたくなかった研究結果ですね。

もちろんネット上には、科学的根拠のない古い情報を元に、「勉強の合間に糖分を摂取したほうがいい」などと推奨する情報は大量にあります。フラシーボ効果はあるかもしれません。

「端午の節句」と「こどもの日」は違う

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5月5日は、こどもの日として「男の子の誕生を祝うとともに、その健やかな成長を祈る」と思っている人が多いかもしれません。3月3日は、桃の節句として「女の子の健康と幸福を願う」日としているのに、なぜ祝日ではないのだろうか、「男女平等じゃない!!」と思った人も多いことでしょう。

実は「男の子の誕生を祝うとともに......」というのは、端午の節句のことです。「こどもの日」は「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」となっています。「男の子」「女の子」の区別はありません。

節句というのは、5つあります。1月7日の「七草の節句」、3月3日の「桃の節句」、5月5日の「端午の節句」、7月7日の「笹の節句」、9月9日の「菊の節句」です。江戸時代は祝日(祝祭日)でしたが、新暦となった1873年(明治6年)に、この5つは祝日から外されました。

明治から昭和の戦前までは、宮中行事に関係する日が祝日でした。戦後、1948年(昭和23年)に新しい憲法の精神に基づいて祝日を再検討しようとして、元日、成人の日、天皇誕生日、春分の日、憲法記念日、こどもの日、秋分の日、文化の日、勤労感謝の日の計9日が最初の祝日として制定されました。

5月5日を「こどもの日」としましたが、なぜ3月3日ではなく、5月5日の方を祝日にしたかというと、「これから暖かくなる5月のほうがいい」という理由だったそうです。「こどもの日」は5月5日で、5月5日は「端午の節句」というだけで、「こどもの日」イコール「端午の節句」というわけではないということです。

明治の最初に節句は祝日でなくなりましたが、それでも引き続き各地で伝統行事は残り続けました。「こどもの日」となった5月5日に、そのまま端午の節句で行われていたことを継続したわけです。

制定の趣旨とちょっと違う感じの行事のような気がしますし、「母に感謝する」という趣旨は知らない人が多いのではないでしょうか。まるで「子育ては母親の仕事」と捉えられるこの表現。今後この表現は問題だと訴える団体が出てくるのかもしれませんが、今のところ気づいていないのかもしれません。

ヴィーガンとLGBTとイスラム教

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ヴィーガンは、ベジタリアンと似ていますが、ベジタリアンの究極といった感じで、動物由来のものが全部排除するという食生活です。白砂糖や納豆もダメなのだそうです。

「私はベジタリアンです」と食べるものを自分で選ぶのは自由なのですが、ヴィーガンは「動物がかわいそう」という発想から来ているので、ヴィーガン以外の人もヴィーガンに取り込む運動をしています。多様性を求めるものとは少し違います。

似たような話として、LGBTがあります。LGBTは、性的少数者のことですが、こういう人もいるのだというのを理解してほしいというのがあります。生き方を自分で選ぶことはその人の考えなので、周りの人は「まあそういう人もいるよね」でOKです。そのために特別な施設を作って用意することは違和感があります。

日本で少数派といえば、イスラム教があります。イスラム教では、豚肉を食べないというのは有名な話です。イスラム教が信仰されている地域は砂漠地帯が多く、豚由来の伝染病が多かったのが要因とされているそうです。「豚は汚い動物」となり、宗教で禁止をしているという流れのようです。

イスラム教の人たちは、他宗教の人が豚肉を食べることに口を出すことはしません。ただし、知らないで食べさせられたときは、宗教上、異を唱えます。豚肉が使われていないことを伝えれば問題は起きません。

しかし、ヴィーガンは、動物を虐待していることを問題視しているので、動物由来の食物を食べている人を無知で知的ではないという理由で見下しています。

自分の価値観を押し付けてくる事例は、日常生活の中でも多く見られます。たとえば、特定の食事制限や生活習慣を持つ人が、それを他人にも強要しようとしたり、自分の信念や考え方を絶対的な正解として押し付けたりすることがあります。

このように、ヴィーガン、LGBT、イスラム教など、それぞれの価値観や生活様式がありますが、他者への理解と尊重の姿勢が重要です。とくに、自分の価値観を他人に強要することは、多様性のある社会の実現を妨げることになりかねません。お互いの違いを認め合い、共生していく態度が大切なのです。

朝・朝廷・朝鮮

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「アケメネス朝」「ブルボン朝」「ウィンザー朝」など、「朝」という接尾辞。これは中学生の頃から私の疑問でした。

まあ、朝廷とか王朝とか、政治や統治と関係があることは想像できますが、なぜ「朝」なのでしょうか。

調べると、どうやら、古代の君主が早朝から臣下を集めて政務を行っていたことから、「朝」という漢字が政治を表す言葉として定着したようです。つまり、アケメネス一族、ブルボン一族、ウィンザー一族による統治体制を「〇〇朝」と呼ぶようになったのです。

外国語ではどうなのでしょう。英語やフランス語では、それぞれ「Achaemenid Empire」「Maison capétienne de Bourbon」「House of Windsor」となっていて、「朝」とは関係ない単語が並びます。

一方、「朝鮮」という国名に使われている「朝」はどうなのでしょう。「朝貢が少ない(鮮)国」を意味する「朝貢鮮少」が略されて「朝鮮」になったという説があります。実際、古代中国は周辺国に対して、「倭(日本)」「匈奴(モンゴル)」「女真(満州)」のように、しばしば蔑称的な呼び名を付けていたとされています。「朝貢鮮少」の意だというのは、後付とされる説ですが、ありえそうに思えてしまう説です。

明日に架ける橋

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「明日に架ける橋
渡る人になるか、作る人になるか」

このフレーズは、私がサイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」という曲からヒントを得て作ったフレーズです。

これについて、AIで作文させるとこうなりました。

人生には、すでにある道を進むのか、それとも新しい道を切り開くのか、という選択に直面することがあります。この言葉は、そんな人生の岐路を「橋」という言葉で表現しています。

橋を渡る人は、先人たちが築いてきた確かな道を進みます。それは安全で、すでに実績のある道筋です。多くの人々が歩んできた道には、それなりの知恵と経験が詰まっています。

一方、橋を作る人は、未知の可能性に挑戦します。新しい道を切り開くには、失敗のリスクや多大な努力が必要かもしれません。しかし、その先には誰も見たことのない景色が広がっているかもしれません。

どちらが正しい選択なのか、その答えは人それぞれでしょう。時には橋を渡る人になり、時には橋を作る人になる --そんな柔軟さも大切かもしれません。

大切なのは、自分がどちらの人になりたいのかを、しっかりと考えることではないでしょうか。

なるほど、そういう解釈か、と思いました。私の思いとぜんぜん違う。

この曲は、困難に苦しんでいる人々に寄り添い、濁流に架かる橋のように身を投げだして支えになろうというような内容です。苦しんでいる人の視点で勇気をもらったと共感する人が世界中にいるわけです。しかし、私はそこに橋があった場合、その橋を渡る人ではなく、造る人になりたいと考えました。助けてあげる側の人間になれるように、自分の磨いていきたい。

もちろん、この曲は単に「誰かが助けてくれるから頑張れ」という安易なメッセージではありません。正しい道を歩んでいるなら、必ず支えてくれる人がいる、そう信じて前進しなさいという深い意味が込められているのだと思います。

ただし、手を差し伸べることは、言うほど簡単ではありません。自分の言動が本当にその人のためになっているのかというのは、判断がつかないことがあります。時には諦めることが正解の場合があるからです。安易な善意が、かえって状況を悪化させてしまうこともあるのです。やみくもに困った人を助けるのが正義というわけではありません。

自分の思いを短いフレーズにまとめたときに、「あー、わかる」と共感してくれる人がいました。それが自分の意図と同じだったのかは。今考えるとわかりません。ましてや、AIが「明日に架ける橋」という曲を知っていて、曲の内容を理解したうえで、作文をしてくれたのかどうかもあやしいです。

AIが「明日に架ける橋」になってくれるのか。AIに頼るのではなく、私たち自身が困っている人の手助けをする存在にならなければいけないのはもちろんですが、AIでなくても、人の思いを読むのは難しいということです。

夢とDream

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日本語で「夢」という言葉には、夜に見る夢と未来の希望を表す夢と2つの意味があります。ぜんぜん違う意味の2つがひとつの単語というのは紛らわしいと日常感じています。それが英語のDreamも同じ2つの意味が含まれるというのは、とても不思議なことです。

夜に見る夢は、睡眠中に脳が作り出す映像や物語です。時には楽しく、時には怖く、時には意味不明な内容になります。一方、未来への希望としての夢は、自分が実現したい目標や願望を表します。

おもしろいことに、他の言語でも同様の例があります。たとえば、フランス語の「rêve」やドイツ語の「Traum」も、夜の夢と希望の夢の両方の意味を持っています。これは世界中の文化で、夢と希望が密接に結びついていることを示唆しているのかもしれません。

この2つの意味が、日本語と英語で同じように存在するのは、人類共通の経験や感覚が言葉に反映されているからなのか。夜の夢と希望の夢は、どちらも現実とは異なる世界や状況を想像する点で共通しているとも考えられます。

しかし、日本語の場合は、もともと「夢」という単語は、夜に見る夢という意味しかありませんでした。明治時代以降に日本語中に英語が入っていく中で、Dreamとの混在から、「夢」という単語に未来の希望という意味が含まれるようになったということです。

このように、言葉の意味は時代とともに変化し、他の言語との接触によって新しい意味が加わることがあります。「夢」という言葉の変遷は、日本の近代化と西洋文化との出会いを象徴的に表しているとも言えるでしょう。

現代では、「夢を持つ」「夢を追いかける」といった表現が日常的に使われ、希望や目標という意味での「夢」は完全に定着しています。夜に見る夢と希望としての夢、この二重の意味を持つ言葉は、私たちの想像力と願望を豊かに表現する手段となっているのです。

言葉の意味の変化は、その時代の人々の思考や価値観を反映します。「夢」という言葉の変遷を通じて、私たちは日本の文化的な変容と、言語がいかに柔軟に進化していくかを学ぶことができます。

中国語の不思議

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中国語って、文字ありきの言葉だなぁと気になっていました。同じリズムで漢字に割り当てられた音を一つ一つ発音していく言語。漢字がなければ存在できないような言語になっています。これが自然に生まれた言語とは思えないのです。

漢字で表されたものを発音するので、他の言語のように自由に活用することができません。日本語だったら「話す」の過去形として「話した」と活用します。英語でも「speak」「spoke」などと発音を変化させて時制を表します。中国語は、活用ができないので、過去形などの時制がないそうです。文脈から判断するみたいです。

他の言語を使う人からすれば、なんと不便そうな言葉だなぁと思うこともあるでしょう。

しかし、これには中国語の成り立ちが関係しているのでした。「殷」時代に作られた「甲骨文字」が最初で、当時は占いに使われていました。結構知られた話ですよね。漢字は神のメッセージを表記する文字だったのです。そして、「周」の時代には、他の部族との「契約」に使うようになりました。

広い中国大陸で、いろいろな言語を使う民族が入り乱れていたのですが、漢字という文字を使うと発音はできなくても、意味を共有することができるというものです。

今でも、同じ漢字を使いながら中国国内で地域によって発音が違うように、民族によって違う発音をしていたのでしょう。でも、文字を共有の意思疎通手段として便利に発達していったわけです。

言語が異なる民族同士が交流の必要があるときに、独自に発達した言語をピジン語というのですが、中国語はある意味そういったものといえそうです。文字によるピジン語というわけです。

だから、自然に話される言葉に文字を割り当てたというよりは、漢字ありきで構成されているような言語に感じるのは、そもそもそういう言語だからなのでした。

漢字が入ってくる前の日本にも日本語があったように、漢字が使われる前の中国にもそれぞれの地域の自然な言語があったのだろうと思います。ただし、文字がないので記録としてわからないだけです。中国語は、人工言語の一種と考えることができるのではないでしょうか。

古代ローマ帝国は、ラテン文字を使ってラテン語を話していましたが、だんだん方言が発達していき、それぞれイタリア語とかフランス語とかになっていきました。文字は同じラテン文字(アルファベット)を使いながら、綴りも発音に応じて変化していきました。意思疎通がだんだん難しくなっていったのです。

その点、中国は、会話ができなかったとしても、中央の司令が文字で伝わっていきます。中国が統一できているのは、漢字のおかげという考え方もできそうです。いまだに漢字の簡略化をして統一していますが、発音は統一していません。

もともと漢字圏だった朝鮮やベトナムは、漢字の使用をやめました。すでに韓国では、漢字を見ても読めもしなければ意味もわからない人が増えているそうです。もともと識字率が低かったから漢字廃止をしたので、そこは大きな問題ではないそうです。

旧ソ連の国で、キリル文字からラテン文字に変更した国がいくつかあります。日常会話には支障はなく、文字だけを入れ替えました。トルコやモンゴルなど、文字を総入れ替えした国は他にもあります。しかし、国の中で同じ言葉を話していれば、問題ないわけです。

中国が漢字を廃止したら、意思疎通ができなくなって、分裂の道をたどるのでしょう。今でさえ、会話による意思疎通ができないので、接している香港と広州でさえ、ビジネスをするために通訳が必要だといいます。

かつてのローマ帝国よりも情況は難しそうです。漢字があって成り立つ国という中国は、かなり特殊といえそうです。中国語という言語自体が政治的に大きな意味を持つというもの。言語って不思議ですよね。

マルハラ

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文末に句点のマルをつけると、若者は恐怖感や威圧感を感じることから、マルハラといわれるらしい。マルを付ける人が完璧主義の人と思われることもあるということです。

ネットが普及し、三点リーダー「...」の代わりに「。。。」と書く人もいました。単に三点リーダーの入力の仕方がわからないだけだと思うのですが...。マルを入れない人がいる一方で、マルが多い人もいるわけです。

マルが使われだしたのは、漢文の影響だと思うのですが、ピリオドを句点とするものもあり、公式に統一されるのは、令和4年と最近のことなのだそうです。ただし、今でも賞状や感謝状などは、句読点は使いません。あいさつ文にも、終わり示すマルが「縁を切る」につながるからつけないというルールがあるようです。

「けりをつける」という表現があります。同じ終わることを表す言葉でも、こちらは割とポジティブだと思うのですが、「マルをつける」という表現が生まれたら、なんかネガティブなものになりそうですね。

エコとエコ

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「エコ」という言葉は、エコロジーの略で使われ始めたようですが、途中からエコノミーの略としても使われるようになり、混在している状態です。

エコロジーのエコは、環境に関わる言葉で、「環境に優しい」かどうか、エコノミーのエコは、経済のことで、「お財布に優しい」かどうかという意味で使われていると思います。

環境に優しく、経済的(費用軽減)であれば、とても嬉しいのですが、例えば再生紙などは、紙を再生するために手間がかかるので、ゼロから紙を作るよりも費用がかかるため、価格が高くなります。しかし、環境に配慮していることをアピールするために、あえて再生紙を使うことをしています。

SDGsは、「持続可能な開発目標」の意味で、「先進国・途上国すべての国を対象に、経済・社会・環境の3つの側面のバランスがとれた社会を目指す世界共通の目標」とされています。主役はあくまでも人間です。

地球環境に関することも含まれていますが、地球を自然のままにするのではなく、人間が過ごしやすいようにしていくことが優先されます。

縄文時代は、三内丸山遺跡がある青森が温暖で過ごしやすかったであろうという痕跡があります。海面も今よりも高かったようです。その後、寒冷化しました。産業革命後に平均気温が高くなったことを理由に、温暖化を阻止しなければならないとしていますが、もしかしたら自然に起きる温暖化や寒冷化がサイクルが重なっているだけかもしれません。

とにかく、動き出すとブレーキが効かない。

太陽光発電には、太陽光パネルが必要になりますが、作るためには大量の電気を必要とします。生産している国の発電所が稼働しているはずですが、おそらく火力発電所です。そして本来、草木があり、二酸化炭素を吸っている森の木を伐採して、太陽光パネルを設置。

エコでもなければ、エコでもない。無駄に環境を破壊し、無駄にお金を回しているだけ。